ソーっと覗くように首だけ薄暗い廊下へと向ける。
恐いので薄暗い廊下へ向ける視線はサッと明るい電気が灯る室内へと戻す。
女性は迷っていた。
手にはカバン。コンピュータの電源も切ったし、ジャージから私服に着替えた。後は帰るのみ――なのだが。
なんだか気が引ける、ような気持ちになった。
それは約束を破ることへの良心の痛みなのだろうか。
「…………」
頬をポリポリとかいて、目が左右泳いで落ち着かない。
「……待ってる訳ないわよね」
ナミは一人ごと、というよりまるで自分にいい聞かせるように呟(つぶ)いた。
その言葉は暗闇に吸い込まれるだけで、もちろん返事は返ってこない。
「帰ろうかな……でもあいつ口悪いけど約束破ったことないわね。ロロノアは」
約束
その言葉にふとナミは幼い頃おじーちゃんに言われた言葉を思い出した。
『ナミ、いいか。約束ってのはな、破っちゃいけねェ……とても大事なものなんだ』
『そうなの?』
『ああ、そうだな。男にとってとくにな』
『わたし女の子だよ』
『あ、そうだったけか? アハハ……こりゃすまねェ。でもな、ナミ、男も女も関係ねェんだ』
『ふーん。じゃあナミは約束守るよ!』
『お、えらいぞ』
『えへへへ〜』
(そうよね、あの頃は何かと可笑しな事まで吹き込まれた気もするけど……約束は大事よね。ロロノアがいなくてもいいじゃない! 行くだけ行かないと)
そう思うがはやいか、カバンを手にサッと立ち上がった。
そしてナミはロロノアが待っているであろう教室へ髪を上下に揺らして歩みを進める。
――廊下の電気という電気をすべてつけて
ズンズンと決戦に向かうような引き締まった顔でナミは廊下を突き進む。
よおやく最近6時ごろまで陽が落ちにくくなったはいえ、窓から見える空を見上げるとオレンジ色の雲が広がりつつあった。
「今日は60点かしら」
ナミは夕暮れ時が一番好きだ。
夕暮れ時に太陽が写す雲の色が好きなのだ。自分の頭と似た色を見つけるのが楽しい。とても綺麗な夕焼けに出会うと、その夕焼けに照らされて自分の頭はどんな色に染まっているんだろうと考えると胸が弾む。
(でもそんなこと誰にもいえない。
だってみんな笑うんだもの!
わたしだって女よ! プラス大人の女なんですからね!)
「明日は綺麗な夕焼け見れるかしら……ん? なにあれ」
視界の片隅にモクモク……というより、途切れ途切れに煙があがっていた。
火事というほどのものではないようだが……よくよく見れば煙は一定期間で立ち昇っている。
ナミは目を凝らしてよく見てみた。
その煙のパターンにナミはピンと脳内で閃(ひらめ)く。考えるとおりに言葉にだしていくと
「え……なになに。『すぐ帰られたし。 生徒さんが……ケンカ。助けて。泣く』なんですって!ケンカ? それにしても、のろし送るの下手すぎ! 緊急には必要なものだからちゃんと練習しとけって言ってんのに、もう。単語ばっかりじゃない! でものろしがあがるって事は何かあったんだわ」
こうしちゃいられない、とナミは焦る。
だが焦る気持ちは油断を生むのだと、いい聞かせて、一度深く深呼吸をした。
次に
メガネを外して、髪の毛を結んでいた黒いゴムをはずす。
それは一種の儀式のようなもので、教師の姿からごくどうの孫へと変わるものであった。
生徒は教師の自分が守るべきものだが、ごくどうの自分になれば、大切なものを守るのに躊躇(ためら)いが生まれないだろうと思ってのこと。
スーっと静かに息を吸い込んで、吐く息に腹からの声をのせる。
「待ってろ!」
腹からの声、というより叫び声に近い。
よし、と足に力を入れるとナミは廊下を全力で駆け出した。
だが既に駆け出しているナミは気づかない。
ロロノアが教室にいるか確認しようとしていたことを。
――この文明が発達している世の中には、のろしなんかより確実な連絡手段である携帯というものがあることに、焦っていたナミは最後まで気がつかなかった。
◇◆◇
「な、んだ!」
ビクッと痙攣(けいれん)した体に反応したかのように、薄暗い教室内で机がガタン! と揺れた。
「いてェ……」
思い切り頭を机にぶつけたらしい。ぶつけるまで肘(ひじ)をついてうたた寝をしていた青年は机に向かって悪態(あくたい)をついていた。
それにしても、先ほどの雄叫(おたけ)びというか、野獣(やじゅう)の轟(とどろ)くようなものはなんだったのだろうか。ユメにしては聞き知ってるような声だった気がする。
青年はは頭を捻(ひね)りながらユメうつつから抜けきれないでいた。
シャラン、と夕焼けの光を吸い込んで金色に輝いた3連ピアスが音をだして、教室に誰もいない事を告げる。
青年は学らんを着ていた。漆黒(しっこく)の学らんに緑色の頭が映えていて、青年の気の抜けた顔も凛々(りり)しく見える。
寝起きなのだから抜けた顔も仕方がないともいえない。
青年の名はロロノア・ゾロ。
ナミ先生が出すテストに満点で応えた唯一(ゆいいつ)の生徒だった。――別にナミの為に100点とったわけではなかったが、要求を出すには100点を取る必要があったのだ。
年中寝ていると思われるほどこの生徒は所構わず寝る。
授業は聞かなくても教科書を見れば大体理解できたし、テストの成績も悪くない。むしろ、この高校の全国レベルの偏差値をあげていると言っても過言ではない。――ゾロ一人でレベルをあげているのではなく、ゾロの心意気に惚れた舎弟(本人達がそう思いこんでいる)が一生懸命勉強するようになったからである。
いわば相乗効果といえるだろう。
ふと、ゾロはどうして自分が教室で寝ているのか理由が思い出せなかった。
思い出すことといえば、先ほどの叫び声。
『待ってろ!』
あの声はどこかで聞いた気がするけどな、どこだっけか、と頭を動かすも思いだすには至らなかった。
ボーっとまだ覚めやらぬ感覚で外を眺めていると。
颯爽(さっそう)と私服の女が校舎から門へと向かって走っているのが目に入った。
みごとにムダのない走りに「ふーん」と曖昧(あいまい)な感想をもらしつつ、その速い走りに興味を惹かれた。
「目ぼしいものなんてここにはねェし……泥棒にしちゃあ人に見られてマヌケなヤツだな」
以前家捜しでもしたかのようなセリフだったが、ここには教師はいないので誰も咎(とが)める者はいない。
ゾロは私服の女が泥棒に見えたらしい。
「……――」
少し考えてから、でも、と言葉を続けた。
「スタイルいい女だな。……私服だし、生徒じゃねェな」
肩でクルリと跳ね返る髪の毛は、走る体には邪魔には見えない。むしろ逆にポンポンと弾く髪が女の走りを軽やかなものにしていた。
門をくぐると勢いを殺さないまま右へと曲がって行った。
チラリと見えた横顔に、ゾロは
「綺麗な女だな……」
と溜息ひとつこぼした。
暫く彼女の曲がった門を見ていたが、ポツリと一言。
「なんだか見たことあるような気がする……わかんねェ」
答えを知ってるが、のど元に詰って出てこない気分だ。なんだかしっくりしなくて、ゾロは憮然(ぶぜん)とした表情になった。
顔を教室へと戻すと、黒板の左上に時計がPM6:45分をさしていた。
時計を見て、アッと思い出す。
あいつ――ナミのことだ――を待っていたのだ。
わざわざ見るかもわからない答案の後ろに「来い」と書いて。
でも、あいつなら見てくれそうな気がする。
だからまだ待つ気でいた。
「遅せェな、あいつ」
◇◆◇
時刻は7時をまわろうとした頃――綺麗な夕焼けも役目を終えたようで、静かに白い月が顔をだしてきた。
ゾロは睨むように月を無言で眺める。
先ほどまで寝ていたが随分寝ていたお陰で今は頭がハッキリしている。
ずっと待っているのだ、あの融通(ゆうずう)のきかない教師のことを。
でも、待たされているということに怒りはわかない。なぜかいつまでも待てる気がする。
そこに――
「誰だ!」
怒気をはらんだ声と同時に、懐中電灯の光がゾロの顔を照らす。
相手がわからない以上ゾロには睨むしかなかったが、「眩しい」というだけだった。
ゾロの一言に聞き覚えがあったのだろう、先ほどの怒気をはらんだ声をひそめて、呆れたように
「その声は、ロロノアか? またなんでこんな時間に……。授業はとっくに終わっただろうに」
そう言って懐中電灯の光を天井へ向けて、みると相手の顔がよくわかった。
ゾロもよく知っている教務員のおっちゃんだ。
不良と思われがちなゾロだが、ただ口が悪いので周りに誤解を与えてしまうというのをわかっている数少ない理解者のうちの一人である。
ゾロはもう一度月を見上げてポツリと言葉をもらす。
「約束があってな」
「約束?」
「あァ……あいつとな」
「あいつって……誰かわからんが。もう誰も残ってないぞ」
「な……。チッ」
ナミを待っていたゾロにとって、教務員の一言に思わず絶句してしまった。
教務員のおっちゃんは強がってはいるが、少しシュンとなったゾロを励まそうと話題を変えてみた。
「――あ、そういえば。さっきナミ先生が叫んでたな『待ってろ』たら、なんたら。あんな怒ったような声初めて聞いたよ」
カッカカと朗らかに笑う教務員は、またしても絶句したゾロの顔を見て『最近の若いもんはわからんなァ』と心中で溜息をついた。
一方、ゾロは心の中でもろもろの疑問が解決する糸口を見つけた気がした。
(さっきユメうつつに聞いた叫び声は、あいつか……。どんな理由があろうと、おれの誘いをムゲにするたァいい度胸だな)
ゾロは静かに、不敵に、いたずらを思いついた子供のようにニヤリと笑む。
そして教務員のおっちゃんにお礼と別れを告げて、靴をもぎ取るように履いて駆け出した。
4話へ
←背景画像お借りしました。 トリコ 様