『ふと思い出せない時、それを悟られないように誤魔化(ごまかす)ようにして周囲に目を転じる。
すると必ず、誰かしらと目が合ってしまう。
まるでいつも見張られているような感じで居心地が悪いのよ。
取り付くように笑って見せると、
相手は「仕方がない」と目で語る。
次には――無言で苦笑い。
私にとって――
労わりが苦痛で、
優しさが安心できない。
胃がきりりと悲鳴をあげる。服のうえから胃のあたりをさすって粉薬を我慢(がまん)して飲んだ。
薬は常に持ち歩いていたものだったのに、さんざん部屋の中を探し回って、よおやく見つけた場所は引き出しの奥だった。記憶が無くなる前は使う事がなかったのかしら? と疑問に思ったが、まずは飲む事だと自分にいい聞かせた。
胃薬を口にすると安心したのか、ふと、楽な方へと思考が独り歩き。
頭の中ではもう1人の自分が囁(ささや)く
もう、名前の如(ごと)く。
波のように、
自分の生き様を波に任せてみれば?』
代償4
(2004年ゾロ・チョパ誕生日企画。事前アンケート)
ナミはゆっくりとした動作で相手への胸に手をついて寄りかかる。「ふゥ」と妙に甘ったるい声を出して両腕を持ち上げると、見下ろしている戸惑う右目を通りすぎ、相手――サンジの頭の後ろで手を組んだ。少し身長差があるので、もっと距離を縮めようと相手の首に添えた手に力を入れる。と、自然とサンジの顔も俯(うつむ)きかげんとなり息がくすぐったく感じる程だ。
潤(うる)む瞳を満足(まんぞく)げにして覗きこむように見つめるサンジは、少しの間ナミに寄りかかられる嬉しい重みを楽しんでいた。
だが、このままでは話は出来ないだろう。それに潤む瞳に見つめ続けられると気がおかしくなりそうだった。
蒸気してほんのり赤い顔と悩ましげな吐息に、サンジはついつい期待してしまう。仲間以上の関係を。
だから、普段では考えられないナミの行動に、記憶がないというだけで誘いに乗ろうとしている。
いや、誘いがあればいつでも乗る気でいたのだ。ただいつも彼女の隣りにいるのは無愛想なマリモだったが。
今まで手にしたいと思っていた温もりに――手をだしてはいけない媚薬に酔った気分だ――触れてしまったが最後、この手を放すつもりはなかった。
ただひとどきの幻だとしても。
後でどれだけ罵(ののし)られようと――
今頼られているのは、あの剣士ではなく、自分なのだと自負して。
記憶を無くしている彼女に対して卑怯だと思う心も持ち合わせているが、本当なら知らないままであった匂い、そして感触を知ってしまった。知ってしまったが為に引けないという気持ちの方が勝ってしまったのである。
サンジは迷わずにぐいっとナミの腰を引き寄せた。
甘く囁くようにナミの耳元で問う。
「どういうこと?」
ゴクリとのどをならせて戸惑っている風を演じてはいるが、その実コーヒーの差し入れが終わった両手は空いていて、新たな役目が与えられたといわんばかりにナミの腰へと手をまわした。
その欲望が見え隠れする眼差しを受けてナミは満足した。話が早い――頭の回転が速いやつは嫌いではない。一時の情を交わす事でナミが必要としている情報を提供してほしい旨(むね)を理解してくれる男だと。
手始めとして、わざとしなをつくってみる。まるで恋人にでも甘えるかのようにナミは頬を蒸気させ、甘えた声をあげた。
「わかってるくせに……」
「やだな〜。それって、ベッドに並んで座って、おれの知ってる記憶がなくなる以前のナミさんの事を話す……って事?」
そこで一度言葉を止めて、素早くソファーを倒してベッドにしてしまう。ゆったりと腰をすえると、抱きかかえるようにしてナミを膝の上に乗せた。
向き合う姿はまるで抱っこのようでナミは少し気恥ずかしい気持ちになったが、今の自分は艶妖な女を演じているのだと思い込ませて演技を続けた。自分の気持ちなど二の次だ。
サンジは逃げないナミに、むしろ更に身体を寄せてくる態度に満足し話を続けた。
「でも、それ以上に期待していい?」
「質問ばっかりね」
「怒ったかな?」
「ほら、また」
くつくつとネコのように愛らしい笑いを見せるナミをそっと顎(あご)に手を添(そ)えて掴(つか)まえる。
漂う甘い雰囲気は、まるで何日も身体をあわせていなかったような恋人同士のようだ。
絡み合う視線は熱がこもっていて、サンジにはナミの目がよりいっそう潤んでみえた。
ムードに押されてサンジはそっとナミとの距離をつめて顔を寄せた。
ゆっくりと唇をなぞる。
そして
次第についばむように。
「…………」
「――……」
2人は互いを貪るように口づけを交わした。
◇◆◇
自身を犠牲(ぎせい)にして情報を得る。
それがあたり前。
しかし、そこまでして得る価値のあるものなのだろうか。
私の記憶というのは。
答えなんて、どうせ決まっているというのに。どうしてそこまで気になるのだろう。
島から出て海賊の仲間と手を組んで裏切る。その繰り返しだった日々だろうに、何かが私を焦らせる。もどかしい気持ちにさせて、居た堪れない気持ちがわき起こる。
ナミはサンジの頭にまわした手をスルスルとさり気無く下ろし、少し凭(もた)れ気味の体勢を持ち直そうと身を引いた。
だが、ナミとのキスに夢中になっているサンジには通用しなかった。下ろされた手のお陰で、ナミをより抱きしめる事ができたからだ。
自由になるのは手首から先だけで、身じろぎもままならなかった。それよりも気になる事はサンジの熱い視線で、キスの合間に見つめられる瞳はどこか真剣さが感じられる。取引きの為だけならば、こんなにも熱い視線を寄越さなくていいのに。ナミは本当に愛されていると勘違いしてしまいそうな自分を、ツメが食い込むほどにキツク手を握りしめる事で諌(いさ)めた。
痛さで紛らわせないとその行為に溺(おぼ)れてしまいそうになる自分が恐くて。
重ねられる口付の度にナミの心に重い沈殿物がたまっていった。
ドロドロとして気分が悪くなる。
次第に熱がこもりだした自身の肌に、ナミは更に違和感と戸惑いを感じる。
触れられた箇所が過敏に感じられて、まだ触れられていない箇所が疼(うず)くように。
(このまま続けていいの?)
一つの言葉はきっかけの種となり、不安へと育っていく。
『仕事なのよ、これも。情報を聞き出す為に我慢するの』
という感情と
『違う。この口付は――今すぐやめなきゃいけない……』
表情に出す感情は「あなたに酔ってるの」といわんばかりの蕩(とろ)けそうな顔なのに、一部で頭が冴える。冷静な部分が警告を高める。
『今すぐやめなさい! ――匂いも違うじゃない!』と訴える。
身じろぎを繰り返して体を動かしてみる。だが、サンジにとって恥かしがっているようにしか見えなかったようで「ナミさん可愛いな」などと言って放してはくれなかった。
自分から誘っておいて今更なかった事に、などと言う事は収まりがつかないことくらいナミもわかってはいたが、段々と次の行為へと動き始めたサンジをとめたい気持ちが勝りだした丁度その時。
コツコツコツ。
と控えめに戸をノックする音が耳に届いた。
サンジにも同様に聞こえたらしく名残惜(なごりお)しそうにナミの肌から唇を放し、視線だけで聞いてきた。
『俺は黙ってた方がいいよね?』と。ナミは無言で頷(うなづ)く。
無言は有り難かった。もしも、他のクルーに見つかれば何か拙(まず)い事が起きる気がしたからだ。いつもなら上手くやり過す自信があるのに、あのヨーガに似た剣士の目は居た堪れなくなる。心に刺さる程きつい印象を受ける――
そこまで考えが頭に浮かんでいると、目の前のサンジが困った顔で、指を一本立てて上の戸を示していた。どうやら早くなにかしらの返事をした方が良いようだ。考えていた事を打ち消して、なるべく動揺しているように聞こえませんように、と祈りながら。
「はい、誰かしら?」
「お、おれだナミ。診察に来たんだけど入っていいか?」
「ちょっと待ってくれるかしら」
おう、と可愛い高めの返答を受け取ると、ナミはサンジに困った顔を向けた。さも、いいところだったのに残念ね。と口を開けば喋りそうな表情なのに、その実サンジと情を交わさずに済んでよかったとさえ思える自分がいる事にナミは心底驚いた。
それもそのはず、こんな仕事を第二とする考えは彼女らしくなかったからである。そんな自分に少なからずショックを受けていた。
サンジの方も残念がってはいたが、ノックと同時にナミの体を放して、すっかり身支度(みじたく)を整えていた。雰囲気が盛り上がって居た為に「診察は断って」など言い出すかと思って構えていたナミは少し驚いた。キュッとネクタイを締めて、手にはお盆を持って、サンジは階段へと足を向けた。
2、3段登った所で何か思い出したのだろう。サッと踵(きびす)を返してナミの耳元へと口を寄せて小声で囁(ささや)いた。
「この続きはまたね」
「また、って――」
ニカっと笑うコックを呆気に取られた顔で見送るしかなかったナミは目の前にチョッパーが降りてきた事に暫く気づかなかった。
◇◆◇
サンジはチョッパーと入れ違いに倉庫へと上がった。すれ違い様に手にしていたお盆を見てチョッパーはサンジがナミに差入れに来たと思ったらしく――ある意味その通りなのだが――「ご苦労様、サンジ」と労いの言葉を掛けてくれた。だがサンジはその言葉を受け取ると、無垢(むく)な笑顔に対して冷汗をかいた。
なんだか騙(だま)しているような気分だからだった。
でも思い出されるは、柔らかい感触。
(折角(せっかく)いい雰囲気だったのに。あんなにも色っぽいナミさんを腕に抱きしめていたなんて夢か、幻か……)
歩きながら抱きしめた感触を思い出していると、
鋭い殺気を感じた。いや、ずっと、ナミの肌の感触を手に抱きしめていた時から感じてはいたのだが。サンジは挑戦するようにナミとの行為を重ねて無視していたのだ。始めはチクチクするといった生易(なまやさ)しいものだったが、次第に、そう――まるで、剣で斬られたかと錯覚(さっかく)させられる程の殺気を放ってきた。ナミは熱に魘(うな)されてたかのようにボーっと意識を散じていたから殺気には気づかなかったようだが。
下の男部屋から嫌というほど感じられる殺気にウンザリとしたが、キッチンでお盆を置いてから男部屋へと梯子(はしご)を降り始めた。
「――……チッ、面倒だな」
◇◆◇
男部屋に降りると今にも切り捨てそうな殺気を放つ本人が壁を背に座っていた。丁度(ちょうど)女部屋を背にして座っている態勢だ。剣を立てて視線は真っすぐ前を向いている。どこかに焦点(しょうてん)を合わせているわけではないようで、ギラギラと光る目は何も捕らえていないようである。
部屋には他に誰もいないのでシンと静まり返っている。隣りでチョッパーとナミとの会話がよく聞こえた。
――これなら女部屋での出来事もよくわかるはずだ。
必然的に先ほどまで行われていたサンジとナミの行為も、この剣士の耳には届いていた、と言う事になる。
(男部屋にいるの知っててわざとおまえを煽った……なんて言ったらどう答えるんだろうな)
普段ならばゾロとサンジの立場は逆だった。サンジはゾロとナミの関係を知っていたが、2人が何も言わない為あえて自分からは2人の関係を問うた事はない。だが、常々味わっていた屈辱(くつじょく)があった。ゾロがナミとの情事を隣りの男部屋にいるサンジに聞かせるようにして行う事だった。その度にサンジは苦い思いをしてきた。
ナミさんが選んだ男はクソ剣士であって自分ではない、という事実に打ちひしがれても。求められたら応じるつもりで毎日を過ごしてきた。
だから、記憶をなくしてる今、近づく事を許されている。あのクソ剣士ではなく、俺が。
(おまえは耐えられないだろう、いつも手にしている温もりを知っているからこそ。独りの時間が恋しくて、そしてナミさんは違う男の腕の中。……おまえはどう動くんだ? それともショックで動けねェかもな)
情報を提供する、と言う事で交わされたナミとの約束ではあっても。今ナミさんに必要とされているのはおれだ! おまえには渡さねェぞ。という自負がサンジにはあった。
目に険を宿してサンジは相手の出方(でかた)を窺(うかが)う。
視線を感じてか、一度目線だけを動かしてサンジを捉えたが、ゾロは一言も発しなかった。
サンジとしては何か罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐くか、刀を抜くと思っていたのに、拍子抜けしてしまった。
だから軽めの口調でゾロをからかう事にした。
「文句がありゃドアを蹴破ってでもくればよかったのに。殺気ばっかり女部屋に向けたらナミさん困るだろ? おれはちっとも困らないけど」
まるで先ほどまでの情事をゾロがわかってて話しているような、挑戦的な口ぶりだった。続けて言葉を発そうとした矢先――
だん!! と壁が鳴り響くかのような音が壁に刻まれた。拳(こぶし)を硬くにぎってゾロは静かに一言だけ
「だまれ」
と凄味(すごみ)をきかせた。
それが負け惜しみだと感じたサンジは満足げにニヤリと笑って男部屋を後にした。
◇◆◇
その翌日からナミは困ることがあると必ずサンジを頼った。対照的にゾロに対しては更に近づかなくなった。その理由として、居た堪れない気持ちに苛(さいな)まれるからだと診察の時間にポツリと船医にもらしたようだが。
何がいけないのか、ゾロには皆目わからず、眉間(みけん)の皺(しわ)は増える一方だった。
(――……くそ、イライラする)
ナミは思い出せない記憶に戸惑い、ゾロは豹変(ひょうへん)した態度のナミの扱いが判らず苛立(いらだ)ちを募(つの)らせていた。
互いに悩み、心苦しみ、体までも病もうとしていた。
この悪循環に気づくのはサンジのみ。
つづく
第5話へ
TOPへ
|