私は大きなペットを飼っている。
大型で耳がピンと真っすぐ立っていて、毛が硬い。
首輪はしていないけれど逃げていかないし、無駄咆(ぼ)えもしない。
だけどご老体って訳じゃなくて、ご飯を食べさせると普段はだらりと力のないしっぽが車のワイパーのように勢いよく振っちゃう姿なんかは『単純バカで可愛いなあ』と思ってしまう。
そう、私は大きな犬を飼っている。
――いや、ペットを飼っていたつもりだった、というべきだろうか。
だって、彼は人間の男だったのだから。
とある出来事を目撃してしまったばっかりに、現実を見て見ぬ振りはできなかったのよ。
そう、全ては思い込みだと知らされたからね……。
パラレルお題:4浮気
「また寝てる。5分として起きていられないのかしらね、この男は。さっきの電話代返しなさいよ、まったく」
腰に手をあて仁王立ち、つま先はトントントンと苛々(いらいら)する気持ちを表したかのようなリズムを畳(たたみ)の上で奏でている少女がひたすら寝入っている大柄(おおがら)の男へと文句を降り注いだ。
揺れる足に合わせて丈(たけ)の短いスカートがフワリと揺れる。快晴の光に照らされてスカートの藍(あお)色がよく映えている。それに加え肩の周りに可愛らしくフリルがついている白色のエプロンの下には赤のスカーフがよく合う白の制服を着ていた。
そう、少女は高校生。
正真正銘(しょうしんしょうめい)、現役女子高校生――ナミはグガガガと寝ている男を見やり、今日はどうやって起こすかと頭を悩ませていた。
時計に目をやると8時前、目の前で寝ている大男は大学生で確か今日は午後からしか授業がなかったはず。問題は今すぐ起こさないと私が授業に間に合わないじゃない! とナミはそう思うや、手早くエプロンを脱いで大男の耳元へ甘ったるい声を掛けた。
「――あ・な・た。ねえ、あなたってば……ゾロ、私もう学校行くから。朝ご飯今日もいつものところに置いて置くから、食べてから大学行ってね。ねえ、わかった?」
「ン、ガガガガ……」
「ねえ、ゾロ」
「スピースピー……」
優しく肩を揺らして起こしてみるも、反応なし。
聞くどころか起きやしない。
優しく揺する手が、むんずと両手で肩をつかむような態勢になっていく。次第には前後に荒々しく揺すって、地をはうような声で「起きろ、起きろ、起きろー。起きろって言ってんのよ!」と繰り返す。三半規管(さんはんきかん)が弱ければ朝から船酔いを疑似体験(ぎじたいけん)するはめになっただろうが、チャラチャラと三連ピアスを揺らす男には通じないようだ。
結局、最後には毎日日課となっているこの方法でしかゾロは起きないのだと、ナミは重い溜息を吐き出しつつ痛感した。
「今日の題して、『ちょい新婚気分で寝覚めグッジョブ大作戦』は失敗と……」
かくして携帯電話のメモ機能に今日も書き加えられた。大男の起こしかた失敗談として。
「メモリー容量くってきたわね……って、マズイ、遅刻しちゃう。ゾロ、いい加減起きたんでしょ。お皿ちゃんと洗っておくのよ、いいわね」
「ん? ああ……わかった」
ふわァと欠伸(あくび)をしながら答えた大男はのっそりと動くとナミを見送りに玄関へと足を向けた。
「じゃあまた明日ね、ゾロ。いってきます!」
「気をつけてな」
笑顔で別れを告げて外へと駆け出したナミは、先ほど見た幻にくつくつと笑いをもらさずにはいられなかった。
見送りに玄関まで来てくれた大男が、ナミには「いってらっしゃい」としっぽを振っているように思えたからだ。それにナミが作ったご飯を食べる時はニコニコと美味しそうにがっついて食べるし、またはゾロに対して怒ったりした時うな垂れる姿がどうしても犬を彷彿(ほうふつ)とさせてしまう。
「ああ、毎朝ペットの世話って大変ね。ふふ」
実際には大の男なのだが、ナミにとっては大型犬のような感覚だった。
◇◆◇
なぜ大型犬――もとい、ゾロの世話をするはめになったかというと。今から遡る事(さかのぼること)約3ヶ月前に話は戻る。
「え? 朝起こすバイト?」
「うん、そう。おばさんバイト代奮発しちゃうわ、ナミちゃん!」
「本当に朝起こすだけ? 別に他の人でもいいじゃない」
「あら、疑り深い。だから言ってるじゃない、主人の仕事の都合で海外に行くんだけどあの子だけ地元の大学受かっちゃったから日本に残るのよ。今更海外の大学受ける手続きも面倒だとか言っちゃってね、独り暮らしする事になって。でもあのバカ目を放すと1日中寝てばかりで。あれを起こせるのは私とナミちゃんだけなんだもん」
「『なんだもん』って言われても。おばさん、いくら私が幼馴染みだからって私にも用事があったりするし」
何かと言い訳を並べて断ろうとするナミに、ゾロの母親はわざとらしい声で「あの欲しがってたコンパスあげようと思ってたのになー。でもいらないなら違う人に来てもらって、おまけにコンパスあげようかしらー」
その言葉を聞いた途端、ナミは片手を高々と挙げて宣言していた。
「はい、頑張って大型犬を起こします!」
「ナイス、心意気!」
ゾロの母親が所持しているコンパスはとても正確でおまけに値段が高い。とてもじゃないが高校生のおこづかいでは買えないのだ。
こうしてナミはゾロの母親に上手い具合につられてしまったのだった。
◇◆◇
(毎日起こしに行ってはや3ヶ月。日々が経過するにつれあの大男がどうしてもペットとしか思えないのよね……。どうしようもない程の低血圧で――実際低血圧はどうにもならないだろうが――無口だし、目つき悪いし。でもご飯美味しそうに食べるのよねー。ハムスターみたいに頬に食べ物頬張(ほおば)ってるのにお茶碗(ちゃわん)つき出しておかわり催促(さいそく)するのが可愛くて、ご飯くれる人に懐いてるのよ、きっと。フリスビーとか投げたら喜んで取ってきそうな気がするわ。ふふ、さてと、明日の朝ご飯何にしようかな。あ、そうだ――今日はちょっと遠いけど駅前まで買い物行ってみようかしら)
5限目の授業が終わりにさしかかる時間にナミはあらかた書き写したノートの端に、人知れず嬉々として買い物リストを書いていた。
所変わって駅前スーパー。ここは大型のスーパーだけあっていつも材料を買う商店街よりも種類が豊富だ。キョロキョロと目を転じつつ、ノートの端に書いたメモの内容を思い出す。
「お豆腐に、牛乳買ったし……バターもそろそろなくなるんだったけ? ……ま、どっちでもいっか。お料理代も別途頂いてる事だし。えっと……後は……」
探し物をしているナミの目に意外な光景が飛び込んできた。
「あ……れ……。ゾ、ロ? それに――」
よく見知ったペットが通路の先ににょっきりと見えた。あの歩き方は間違いないだろう、どうしてこんな場所にいるのかは謎だがそれよりも先に声を掛けようと手を挙げた。
だが、挙げ掛けた手は動きだしたとほぼ同時に下ろされた。
なぜなら、
ゾロには連れがいたから。暫くきょとんとしたまま2人の姿を眺めていた。だが、その姿を長く見すぎていた事に気づいた途端、脱兎のごとく相手から見えない場所へナミは移動していた。
見てはいけないものを見てしまったような後ろめたさを感じる。心臓は飛び跳ねそうな勢いでバクバクと脈打っているし、息苦しい。慌てて心臓の上から胸に手を当て落ち着こうと深呼吸を試みた。
「ペットのように思ってたけど……違う、男だったのよ。あたり前の事なのに……私失念してたみたい」
ゾロの連れは女の子だった。ニコニコと笑顔の可愛らしい子で、ゾロも愛想笑いではなく笑顔で話をかわしているようだった。言葉に詰まったような表情ではなく、スラスラとよどみなく言葉を紡(つむ)いでいた。2人は端から見ると睦(むつ)まじい恋人のようで、女の子を気遣いながら歩くゾロはどう見てもペットなどではなく、1人の男に見えた。
「ゾロって喋るんだ……笑顔で」
毎日ゾロを起こして早3ヶ月、あまり会話がない事に疑問を抱かなかった。だって動物は喋らないでしょう? だから喋らない事があたり前だと受け入れてしまっていたんだわ。ナミは追いつかない気持ちを無理やりなだめるのに必死だった。
ふと、手にした買い物かごを見下ろして言葉をもらす。
「なんだ、朝ご飯いらないんだ」
ボソボソ声で呟くと、かごの中に入っている食材を元の場所に戻し始めた。
彼女がいるなら朝ご飯は彼女に作ってもらえばいいのよ……私が居たらかえってお邪魔だろうし。
◇◆◇
のろのろとスーパーから帰宅した後、ナミは考えていた事を伝えるべく、出国前に聞いていたゾロの母親宛にメールを送った。
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差出人:ナミ
署名元: xxx.xx.xx
宛先: doramusuko@xxx.xx.xx(おばさん)
日付: 200x/xx/xx 18:37
件名: こんにちは、ご無沙汰してますナミです。
こんばんは、あ、そちらではおはようございますかな。
ご無沙汰してます、ナミです。
そちらの暮らしには慣れましたか、気が早いけどお土産楽しみにしてるから、おばさん宜しくね!
そうそう、おばさんから頼まれたバイトだけど用事ができて続けられなくなりました(ごめんなさい)。引き受けといて途中でやめる事はしたくなかったんだけれど……。
あ、余計なお世話かもしれないけど。
私が行けなくてもゾロには起こしてくれる人がちゃんといるみたいだから安心して下さい!(私が言うのもなんだかヘンだけど)
中途半端に終わってしまうのでバイト代は今まで頂いた分全額お返しします。でも少し使っちゃったからおばさんが帰って来てから帰すって事でいいですか。
お返事待ってます。
体調には気をつけて下さいね
ナミ
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「ふう…………打つだけなのになんだか疲れるわね、嘘は苦手だわ」
送信完了の文字を見て、ナミはパソコンの電源を落とした。
つづく